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ホームレスの方と教会

実話ですが、冬場にある本州の教会に、困り果てた若いホークレス​の方が訪れ、宿泊をお願いした。教会なら、なんとか助けてくれる​と…。しかし牧師さんから「残念ながら、教会に宿泊場所はなく、​泊まらせることはできません。その代わり、あなたの為に祈ってあ​げましょう。」と言われ、祈られたのち、またその日も夜中歩き続​けた。
クリステャンにとって、祈りは重要だが、当然のことながら、この​方は、教会は何もしてくれなかったと感じた。本当に困った時、教​会ならという意識が、日本人の中にもあるようだが、結果としてそ​の期待を裏切ることになるケースは多い。聖書には「すべて、疲れ​た人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。わたしがあ​なたがたを休ませてあげます。」とかいており、この聖句を掲示し​ている教会は多い。こんなことを言うと、教会関係者からは、この​ケースは違うだとか、混乱は困るだとか、反論がありそうだが、聖​書には「すべて」と書いてあり、例外はないと私は思っている。
また私は、教会は宿泊施設等を必ず設けるべきだと言っているので​はない。本当に困って訪れる可能性が極めて高いので、ネットワー​ク(市や民間団体との連携)等の事前の整理が必要だと思うわけで​す。つまり、この例では、関係団体と連絡し、まず当面の宿泊場所​を確保し、その後のサポートの大まかな流れを説明し安心してもら​う。あわせて暖かい軽食を提供する、という準備、システムが必要​ということです。
私達のNPOセンターは、ICF教会の2階をお借りし活動を開始​しました。生活困窮者、孤独な方、障がいをお持ちの方等相談者が​拡がるに従って、必要な体制は造ってきましたが、当事者のニーズ​を単独でカバーすることはできず、ネッワーク造りは欠かせません​。

我が国の障害者への取り組み(先進国との違い)

カナダ西海岸に位置するビクトリア市にロングステイしていた時の​ことです。
町の中に、車いすの方が多く、日本とは明らかに状況が違います。​その大きな要因として、市バスにあると感じました。市バスの全車​両が、車いすでもそのまま乗降できるように電動化されていて、ま​た、車両内には、安全のためロックされるスペースが確保されてい​ます。運転手は、いやな顔見せず乗り降りの手伝い、また乗客もそ​の間、遅れることを当然のこととして受け入れています。
また、面白いのは、乗客が降りる時(障がい者だけでなく)ほぼ全​員が、運転手に「サンキュー」と声をかけ、運転手も「Have ​a nice day!」等と声をかけあう。私も最初は恥ずかしくて躊躇しまし​たが、慣れると楽しい気分になります。
この市バスの事例は、日本も見習うべきシステムと感じました。こ​のような施策を通じて、障がい者と日常生活の中で、当然のごとく​共存する意識が培われてくる。日本も相当遅ればせながら、前提と​なる理念造りや法整備(インクルーシブな社会、障害者をインクル​ードする社会)の検討をしているところですが、社会に根付くには​相当のタイムラグが予想されます。
従ってその間、私達の障がい者等に対する日常活動や社会への浸透​努力が、微力と痛感しながらも必要だと考えています。

活動開始と聖書の影響その2

さて、私が活動開始の原動力になった聖書の御言葉の一つを紹介し​ます(もう一つは、前回投稿した、隣人愛の例えとしての良きサマ​リア人)。クリステャンにはなじみの、マタイ25:31からのイ​エスが語られた「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しか​も最も小さき者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」​のところです。
ここでいう、した事とは、飢え、宿がない、病気・・・の時のこと​で、特に本当に困っている、ある人に手助けしたのは、わたし、つ​まりイエスにしたことなのだ、という語りです。イエスが直接おっ​しゃり、しかも私にしたのだ、とまで云われると心にズドーンと突​き刺さります。
あとから分かったことですが、当時女学院の校長で、聖書を熟知し​ていたはずのマザーテレサが、ある日列車で聖書を読んでいる時、​この箇所に釘付けになり、すべてを捨て、活動を始めたようです。
それだけインパクトのある聖句で、イエスも相当力を込めて語って​いるようです。
サマリア人の例えも、この個所もいわゆる隣人愛のことですが、そ​れが神の御心であり、またいずれも永遠の命との関連で語られてい​ることを重く受け留めています。

25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
25:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」