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活動開始と聖書の影響その2

さて、私が活動開始の原動力になった聖書の御言葉の一つを紹介し​ます(もう一つは、前回投稿した、隣人愛の例えとしての良きサマ​リア人)。クリステャンにはなじみの、マタイ25:31からのイ​エスが語られた「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しか​も最も小さき者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」​のところです。
ここでいう、した事とは、飢え、宿がない、病気・・・の時のこと​で、特に本当に困っている、ある人に手助けしたのは、わたし、つ​まりイエスにしたことなのだ、という語りです。イエスが直接おっ​しゃり、しかも私にしたのだ、とまで云われると心にズドーンと突​き刺さります。
あとから分かったことですが、当時女学院の校長で、聖書を熟知し​ていたはずのマザーテレサが、ある日列車で聖書を読んでいる時、​この箇所に釘付けになり、すべてを捨て、活動を始めたようです。
それだけインパクトのある聖句で、イエスも相当力を込めて語って​いるようです。
サマリア人の例えも、この個所もいわゆる隣人愛のことですが、そ​れが神の御心であり、またいずれも永遠の命との関連で語られてい​ることを重く受け留めています。

25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
25:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」