「Vol.25」

グドール先生の
『子育てシリーズ』


「最後には愛」


愛の章と呼ばれているコリント人への第一の手紙十三章の最後に、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。

その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。この世界ですべてのものがなくなったとしても、最後に残る

のは愛だというのです。憎しみにも大きな力があります。今の世界情勢を見ていると、様々なところで憎しみが増大

しているのが分かります。それが爆発すると大きな破壊力があります。一見すると、憎しみの力の方が強く見えま

す。しかしこの世界で最後に勝つのは愛であり、最後に残るのは愛なのです。本当の愛は朽ちることがありません。

本当の愛は滅びないし、絶えることがないのです。


恋と愛の違い


新約聖書が書かれた時代、ギリシャ文化には愛を表す言葉がいくつかありました。まず、情熱的な愛、あるいは性的

な愛を表す「エロース」、それから親子、兄弟、友人等の愛を表す「フィレオー」がありました。

エロースは自己中心的な愛であり、「私の」幸せを求めるのに対して、「フィレオー」は「私たちの」幸せを求める

という点で、「エロース」より高い愛を表していました。


ところが、キリストの弟子たちは、キリストの生涯の中に見た愛をこれらの言葉では表現できませんでした。

他人のために精一杯生きる愛、自分を犠牲にしてまでも他人のために生きる愛、いのちさえも与える愛。

この愛を示すのに、新約聖書の記者たちは、その当時単に「気に入る」とか親愛の情を示す程度の意味を持ってい

た、アガペーという言葉を用いたのです。アガペーは新約聖書で用いられるようになって、神的、自己犠牲的、他者

中心的な愛という意味を持つようになりました。


私は結婚する以前、ずいぶん悩んだことがあります。それは、「今好きになって、結婚しようと思っているこの女性

(明美)が好きでなくなったらどうしよう」という思いでした。それ以前にも好きになった女性がいましたが、いつ

のまにか好きでなくなりました。もし同じことになったらどうしよう、と悩みました。でも、その頃読んだ愛や結婚

に関する様々な本、特に岸義紘師の『あなたと考える愛というテーマ』(大いに推薦する本です。にひきのさかな社

発行)を通して、恋と愛の違いが分かるようになりました。


恋は感情に依存しており、放っておいても自然に生じてくる、熱しやすくも冷めやすいもの。しかし愛は一般に考え

られているよりもはるかに深く「意志」に依存しているもの。人はそうしようと決めたら、愛を深めたり、伸ばした

りすることができるということを知るようになりました。ですから、「そうだ。僕は明美を愛しているんだ。そして

いつまでも愛するんだ」と心で決めました。今結婚して一八年経ちますが、この気持ちは変わらず、むしろ深くなっ

ています。

アガペーはフィレオーと比べると感情や親密さにおいて劣るように見えますが、質において劣るわけではなく、感情

が伴わないということでもありません。むしろ、愛すると心で決めたら、感情、つまり好きという感覚(胸キュン!)

や恋心はそれについてくることを発見します。


わたし、あなたのためなら、死んでもいいわ明治の小説家で二葉亭四迷(本名・長谷川辰之助。一八六四-一九〇

九)という人がいます。彼は小説家になると聞かされた父親から、「くたばってしめー!」とよく叱られて、勘当さ

れたときのことを忘れないように、二葉亭四迷という変わったペンネームをつけました。そんな彼がある作品を翻訳

していて、"I love you" を日本語にどう訳すかでずいぶん悩みました。当時はまだ「愛」が日本語で市民権を得

ていませんでした。三日三晩、悩み、考え抜いた末、素晴らしいひらめきが与えられました。


「わたし、あなたのためなら、死んでもいいわ」


愛するとは、愛する人の幸せのために、いのちさえ捨てるということです。でも私たちの現実の生活の中で、愛する

人のために実際に死ぬということはほとんどないでしょう。死ぬということは、裏返して言えば、愛する人のため精

一杯生きること、今日という日を、体を張って、時間をささげて、全力で生きることです。


「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」

(第一ヨハネ三・16


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